研修医の暇つぶし

ここを心のキャンプ地とする

隣の芝生が青すぎる

どうもひつまぶしです

 

 みなさんは”隣の芝生は青い”ということわざを知っていますでしょうか?人のものは自分の物よりもよく見えるという意味なのですが、どうも私はよく見えすぎる帰来があるようで、些細な事に対して痛烈な劣等感を感じてしまう事が多いんですよね。

 とはいえ私個人は劣等感は悪い感情ではないと思っています。劣等感があるから人より上に立とうと努力する事ができますし、その人をより尊敬する事ができると考えているからです。

 ですので考え方を改めようとはせず、小さい時から痛烈な劣等感と供に成長し努力し結果として医学部に入るまでに至りました。この思考のおかげでめげずに勉強できたとまで言えるほどこの考え方、性格には感謝していたんですよね。

 

 

 しかし私の中の劣等感はこういった考え方をしていたからか、感受性を増し、私の中で膨れ上がって、とうとう弊害をきたすようになってしまったのです。

  最初は羨ましいという感情が強くなりました。お金があって羨ましい、ゲームが上手くて羨ましい、勉強ができて羨ましい、コミュ力があって羨ましい....様々な人の秀でた点を羨ましがり、少しでもそこに近づこうと努力したり、考えたりしました。

 高校時代ならそれこそ羨むことはもっぱら勉強だけだったので、寝る間を惜しんで勉強すれば手に入りましたし、満足できました。しかし大学生にもなると色々な境遇の人がいて、そういう人の秀でた点というのはお金みたいにどうにもならないものや、習得するのに相当な時間がかかるものしかありません。しかもそれを、あれもこれもと習得しようとするのですから、疲弊して、残るのは、中途半端な成果と何も達成できなかったという虚無感だけ

 そうなると今度は他人が恵まれて見えて仕方ない。自分も恵まれていることは百も承知だが、それでも羨ましい、なんで自分だけ何も秀でてないのか、なんで自分だけ辛い思いをしているのか...そうやって悶々とした感情が色眼鏡になり、他人を見る時に私の目にかかってしまうのです。

  この色眼鏡がなかなかに厄介で、例えば生き方や方針を否定されると、自分の中では貴族が平民にアドバイスしているような感覚ですから、平民側としては当然気分が良くない。一方で平民側から意見することは普通だと思っている。つまり他人から見ればとってもわがままな人間になってしまうのです。

 

 

 こんな感じでいわゆるめんどくさい私が構成されています。しかも厄介なことに、めんどくさいと分かっているのに、この20年近くかけて凝り固まった思考というのは治そうと思っても治せないんですよ!なんでなんだろう...

 気楽に人と接せる人が羨ましいです...と言い始めるとまた繰り返しになってしまうのでこれくらいにしておきますね。

 

ではまた